好きになった瞬間の切り取り方|村神千紘

私、村神千紘が日常見かけたなにげない風景や流れてゆく時間の中で感じたこと、手の届く物、届かない物でも興味を惹かれたものについて、現在進行、あるいは少し昔を振り返ったりしながら書いていきたいと思います。

コルビジェ、K-BALLET、熊川哲也、吉田都。記憶が揺り起こされる場所、上野の森

第4日目は、上野の森を訪れたことについて書いていきたいと思います。

上野の森を訪れるのはずいぶん久しぶりのことです。主な目的は、動物園ではなく、また美術館でもありませんでした。バレエ公演の鑑賞で、東京文化会館を訪れることが多かったのです。

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2007年。今から10年前の5月、K−バレエカンパニー『海賊』の札幌公演で、熊川哲也が公演中に右ひざ前十字靱帯を損傷するという衝撃的な事件が起こりました。
この大怪我が、彼のその後のダンサーとしてのキャリアに大きな影を落とすことになったわけですが、そのわずか4日前の公演を、東京文化会館で見ていました。熊川哲也がアリを、吉田都がメドーラを演じた日です。

当日のアリのバリエーションを演じる熊川哲也のジャンプ、回転、着地という一連の見せ場は鬼気迫るものがあって、見ていて鳥肌が立つほどの凄さでした。彼のその後のパフォーマンスを考えると、キャリアのピークといっても良いような全盛期の公演を目撃できたわけで、そんな貴重な経験として強く印象に残っています。それは、その前年のクリスマスイブ・イブの夜、吉田都をマリー姫に迎え府中の森芸術劇場で行われたクリスマス公演、『くるみ割り人形』での感動に匹敵するかもしれません。

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あの夜の『くるみ割り人形』は、プログラムの全編にわたって、公演にかける熊川哲也の熱い思いと情熱、それを見事に体現していく吉田都を筆頭としたダンサーたちの気迫と圧倒的な存在感が際立っていて、それらと観客の思いが一体となって、バレエ公演では体験したことのない熱気に会場は包まれていました。
一点の曇りもなく演じられたグラン・パドゥドゥの余韻を長く残したまま、カーテンコールでは、客席の照明が点灯されてからもスタンディングオベーションの拍手は鳴り止みませんでした。
ディナーの予約時間があったため、カーテンコールが終わる気配なく続く中、後ろ髪を引かれるように会場を後にしましたが、あの夜の経験に匹敵するくらいの衝撃でした。

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女の子との初デートは、同じ上野の森、国立西洋美術館でした。

国立西洋美術館を含むル・コルビジエの建築作品が世界遺産に登録されましたが、コルビジエといえば、建築を学ぶ学生は必ず彼の作品に遭遇することになる大建築家ですが、彼が残したサヴォア邸は、建築されて八十年以上経過した今も、現代の建築家に大きな影響を及ぼし続けています。

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日本でいえば昭和の初頭という時代に、あのデザインと間取り、構造を提案しただけでなく、住む人にそれまでに存在しなかったはずのライフスタイルを提案したという意味でも極めて特異な存在だったはずです。たぶんあの時代のフランスでも、サヴォア邸で快適に過ごせるライフスタイルをもった人は少数だったと思います。サヴォア邸のスロープを下り浴室を覗き込んだ瞬間、なぜか川久保玲のクリエーションに通底するものをそこに感じたのは、錯覚だったでしょうか。

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現存している彼の作品は決して多くはありませんが、どれも魅力的な建築です。その中でもサヴォア邸、ロンシャンの礼拝堂、ラトゥーレット修道院は、建築を見るためだけに現地に足を運んでも後悔しない作品と言えると思います。

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東京国立博物館で『レオナルド・ダ・ヴィンチ −天才の実像』が開かれ、ダ・ヴィンチの『受胎告知』が展示されたことがありました。2007年のことです。
前年にフィレンツェへ行った際、ウフィッツィ美術館から貸し出し中だったため鑑賞できなかった作品が、世界を廻り回って東京国立博物館にきてくれた、という感じでした。

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特設されたスロープをゾロゾロと下って行き、作品の前を通り過ぎながらその数十秒の間に作品に触れる、という感じでした。
1970年代の歴史的事件として記憶されている『モナ・リザ』公開時の長蛇の列に比べればささやかな列でしたが、日本人があれほどの行列を作って鑑賞した『モナ・リザ』も、2004年のルーブルでは、クランク状に折れ曲がった通路の突き当りに展示されていて、数人ひとをかき分ければ見られるような状況でした。ただ緑がかったガラスで保護されていたため、照明も工夫されている感じでもなく、あまりきれいに見えませんでした。
現在では別の場所に展示されているようです。今でもガラスで保護されているようですが、きれいに見えているでしょうか?

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窓から上野駅の高架ホームが見渡せるレストランでランチを食べました。
手前から京浜東北線、山手線、上野東京ラインが見えます。十両以上の編成の列車が行き交っていました。
帯に高崎線東北本線常磐線のシンボルカラーが入った車両が、東京方面に出て行ったり、逆に入ってきたりする光景は、昔、上野駅を利用していた人間にとっては不思議な光景です。普通列車にグリーン席なんかはなくて、そのかわり特急列車が走っていました。
座席の上部にカードや携帯電話をかざしてチェックインし、その席から離れると自動的に料金が精算されるなんて時代がくることを、SF小説に描いた人はいたでしょうか?

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場所には、そこに係わった人々の記憶を刺激し、甦らせる力があります。

場所は、時間の経過とともに様々に有機的に変化してゆきます。しかし変わってしまったからといって人々の記憶までがフォーマットされるわけではありません。そこにまた人が集まってきて、それぞれの胸に新たな記憶を形作っていくのです。
上野の森という場所には、自分の記憶を刺激するものが確かに存在しました。目には見えなくても、場所の持つ力が存在する限り、私が生きている間は、私自身の生きてきた時間軸の中のランドマークのひとつであり続けるのでしょうね。