好きになった瞬間の切り取り方|村神千紘

私、村神千紘が日常見かけたなにげない風景や流れてゆく時間の中で感じたこと、手の届く物、届かない物でも興味を惹かれたものについて、現在進行、あるいは少し昔を振り返ったりしながら書いていきたいと思います。

長井ハイツと長井町と、永井宏さんのこと

第9日目は荒崎について書いていきたいと思います。

荒崎での夏の合宿中に、一日か二日、練習が休みになる日がありました。自宅に帰る部員や女の子とのデートに出かける部員がいる中、そんな予定のない残った数人で岬の反対側にある、長浜という海水浴場へ行きました。

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岬の先の岩場伝いに、「長浜なら、若い女の子がいっぱい海水浴にきているから声をかけ放題だぞ」などと口々に白い砂浜まで歩きました。

天気は申し分なく良かったのだけれど、長浜海水浴場には、海水浴客の姿がありませんでした。もちろん声をかけたくなるような若い女の子も。

泳ぎ飽きた海で少し泳ぎ、暇そうな売店でコーラを飲んで、すっかり盛り下がった気分のまま、合宿所へ戻ることになりました。

海水浴場の背後は丘陵になっていて、丘陵一面を野菜畑が埋めていました。丘陵と海岸の境界が、一部、白い砂の崖になっていて、砂浜から見上げると崖の上の野菜畑の中で農作業をしている姿が見えました。

 

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時間は有り余っていたので、丘陵の上を通って帰ることにしました。岬を突っ切る農道が一番の近道だったのですけれど、予定が狂って時間も早かったので違う道から帰ることにしたのです。

白い崖を横目に坂道を上り切ると、周囲を高いフェンスで囲まれたレーダー施設がありました。そこを過ぎると丘陵は平坦になりました。視界の先まで野菜畑が波立つように広がっています。

しばらく歩くと、唐突なかたちで住宅地が現れました。見慣れない造りの家が十数軒、本当に唐突な感じで建ち並んでいたのです。右手の林の上にコンクリートの給水塔が見え、住宅には芝の広い前庭がありました。外壁は板材が横向きに張られ、ペンキで白く塗装されていました。屋根は勾配が緩く、日本の瓦よりずっと薄い瓦で葺かれていました。玄関ドアも窓も木製で、ガラスの内側に花柄のカーテンが引かれているのが見えました。古くなった、輸入住宅の展示場みたいだ、と思いました。もちろん当時そんな展示場を見たことはなかったけれど。

記憶の中から、アメリカ映画で見た郊外住宅地の風景と横田基地の周辺の雰囲気が思い浮かんだのを、今でもよく覚えています。

 

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その十数軒の家々は、アスファルトで舗装された広い道路をはさんで、向かい合うように建てられていました。道路の反対側には広い芝生の前庭がありましたが、人の気配はありませんでした。

交差点に出ると、不自然に真っ直ぐで不必要なくらい幅の広いアスファルトの道路が直交していました。不自然に真っ直ぐで不必要なくらい幅の広いアスファルトの道路は、包丁を入れたように丘陵を真っ直ぐに切り裂いていました。

そこは第二次世界大戦当時、旧帝国海軍の基地として造られ、終戦後に米軍に接収されて、昭和の終わりくらいまで横須賀基地に配属された米兵の家族のための住宅だったのです。不自然に真っ直ぐで不必要なくらい幅の広いアスファルトの道路は、旧帝国海軍が造った滑走路だったのです。定かではありませんが、海から吹き付ける風が、離陸には最適だったというようなことをなにかで読んだ記憶があります。

当時、メインストリームのカルチャーのベクトルは、アメリカから日本への一方通行的な太さでしたから、意味もなくアメリカへの好奇心を掻き立てられたのを覚えています。今は、『長井海の手公園ソレイユの丘』と命名された南仏風の農業体験型の公園施設になっていますが、そのあたりの経緯については、ずいぶん後になってから『長井の風』というブログで知りました。

米軍住宅は「長井ハイツ」と呼ばれていたそうで、記事には当時の写真やエピソードなどが丁寧に記されていました。ブログはすでに閉鎖されたのか現在は閲覧できません。「長井ハイツ」について、ブログ主に直接会って話を聞きたいとも思っていました。是非、再開して欲しいと思っています。

住宅は、数ブロックを構成していただけで、そこを過ぎると再び唐突なかたちで消え失せ、畑が広がる丘陵に戻りました。

その年を最後に、荒崎へ合宿で行くことがなくなり、あの日見た風景をもう一度確かめたいと思いながらも、「長井ハイツ」を再訪する機会は作れませんでした。

この頃体験したことをモチーフにして、『海風が、波を描いている』という小説のいくつかのシーンを書きました。小説に書いとことをきっかけに、「長井ハイツ」があった丘陵を再訪した時には、『長井海の手公園ソレイユの丘』に姿を変えていて、もちろん給水塔もなく、「不自然に真っ直ぐで不必要なくらい幅の広いアスファルトの道路」の面影を広い駐車場になんとか重ね合わせられただけでした。

数十年の時が経過した今も、私の中では、鮮やかでくっきりとした記憶として残っています。とても大切な記憶として。

 

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P.S.

以前、『カフェ・ヴィブモン・ディモンシュ』について書いた時に、永井宏という人のことを書きました。葉山カルチャーを作り上げた人の一人だと思っている人ですが、東日本大震災が発生した翌月の4月に亡くなったのですが、その永井さんの通夜と葬儀が行われたのが、長井町にある長徳寺でした。

あの日から、8年が経ちます。