好きになった瞬間の切り取り方|村神千紘

私、村神千紘が日常見かけたなにげない風景や流れてゆく時間の中で感じたこと、手の届く物、届かない物でも興味を惹かれたものについて、現在進行、あるいは少し昔を振り返ったりしながら書いていきたいと思います。

天使の見つけ方 〜 エピソード① 〜

    エピソード ①


 その年のロンドンには、巨大な観覧車もテートモダンもガーキンすらありませんでした。

 夏の夕方でした。

 マモルはキングスクロス駅に続く通りを歩いていました。ウォルサムストゥーへ行った帰りで、マモルが泊まっていたのはユーストン駅に近い安ホテルだったので、ホテルに戻る前に夕食ができる店がないか、探していたのです。


 奇妙な状況に遭遇したのは、薄暗い路地の向こうにカフェの立て看板を見つけて立ち止まった時でした。

 マモルはカフェに行くのにその路地に踏み込もうか、それとも遠回りになっても安全な広い通りを回って行こうか悩んでいたのです。

 レストランはひとりぼっちでは入りにくいし、パブの酔客の騒がしさにはうんざりしていて、落ち着ける店が良かったのです。

 そんなわけでマモルは小さなカフェを探していました。ロンドンの小さなカフェは、マモルのような気弱な旅行者には合っているようでした。

 路地の入口で、そんなことをぼんやり考えていた時でした。路地を湿った風が吹き抜けていったのです。

 マモルは周囲を見回しました。

 もちろん風なんか見えません。

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 『日本人!』と呼びかけられたのは安全な通りを行こうと歩き始めた時でした。

 もちろんマモルは日本人でしたが、日本語で『日本人』と呼ばれる経験はそうはありません。『チャイニーズ』とか『コリアン』とか言われることはよくありましたが。

 声の主を探して改めて回りを見回しました。

 マモルに声を、それも日本語でかけてきそうな人物は通りに見つけられませんでした。

 黒人のカップルがそんなマモルを、気味悪そうに見ながらすれ違って行きました。

 風の音だったのでしょうか?

 風切音が『日本人』、なんて聞こえることがあるのでしょうか?

 マモルはそこから通りを一街区進み、角を二回曲がってカフェの前へたどり着きました。

 メニューボードを確認します。

 そこに書かれた料理を確かめて、あらかじめ注文するものを決めておくためです。英語のメニューを前にすると、軽いパニック状態に陥ってしまうからです。

 メニューを前に、一向に注文するものを決められない、なんて状態に陥り、結局先客のテーブルの料理を指差すなんてことをマモルは何度も繰り返していました。

 それはそれで未知の料理に挑戦できるチャンスと考えれば悪くはありませんし、英語を理解できない気の毒な東洋人だと同情され、逆に親切にされたりもしました。

 でも旅を始めて数日経って、ささやかながら学習できました。

 店に入る前に注文するものを決めてしまえば良いのです。

 そんなわけでマモルが立ち寄る店は、外からメニューが確認できる店か写真で料理を選べる店に限定されていきました。 

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 豆料理にするか白身の魚をメインとした料理にするか、決めあぐねていた時でした。

 背後を風が吹き抜ける気配がしました。

 続いて、なにかの箱のようなものを押しつぶす音がしました。

「イテッ」

 振り返ると路地の入口のひしゃげた木箱の上に、手足をばたつかせてもがいている人影がありました。

「チクショー」

 人影が言いました。

 それは白いジャージの上下にニット帽を目深に被った小さな人影でした。

 なにごとかと見ていると、金色のスニーカーを履いた足をなんとか通りに下ろして小さな人影は立ち上がりました。

「クッソー」とその人物は毒づいて木箱を蹴り付けました。

 気の毒な木箱を見つめるマモルに、人影は言いました。

「その店はやめといた方が良いよ」

 日本語で聞こえたのは女性の声でした。

 声の主がニット帽を取りました。

「サービスは最低で、その上うまくない」

 ニット帽の下から現れたのは、短い黒髪の同年代に見える女の子の顔でした。

 ニット帽で自分の腰の辺りをはたきながら、女の子は続けました。

「ついておいでよ。安くてうまい店を教えてあげる」

 女の子はそう言うと脱げかけたスニーカーをトントンやりながら、通りを歩き始めました。

 マモルは慌てて彼女に続きました。

 通りを進む彼女の白いジャージのお尻には、黒い染みが二つ丸く付いていました。猿のお尻みたいに。

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 どのくらい歩いたでしょうか。山手線の二駅分くらいは歩いたでしょうか。

 前を行く女の子は、ゴミ箱に飛び乗ったかと思うと宙返りして飛び降りたり、路上駐車してある車をたったの三歩で乗り越えて見せたり、正面から歩いてくる人の目の前で姿を消して、直後にその人の真後ろに現れて見せたりしました。

 マモルは彼女を見失わないように、半分駆け足でついて行きました。

 どうしてマモルはついて行ったのでしょう。

 
「ここよ」

 女の子は小さな店の前で立ち止まりました。

 マモルたちは、キングスクロスからカムデンタウンまで歩いていました。マモルはようやく休めることでほっとしていました。

 女の子はアリスと名乗りました。やれやれ。

 ロンドンには語学留学で滞在しているということでした。ショートヘアのアリスは、少しビョークに似ていました。

 アリスはローストビーフとヨークシャープディングとハギスが盛り合わせになった料理を、マモルはミートパイを注文しました。 

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 食事の間、もっぱらアリスが話していました。

「フリーランニングのトレーサーなの」

 マモルにはそれがなにを意味するのか、まるきり見当がつきませんでした。陸上競技か自動車レースのことでしょうか。

「まず直面しなきゃいけないのが壁なの」

 アリスはそう言うとひとりうなずきました。

「目の前に立ちはだかる壁を克服するのが第一要素ね。目の前に現れるものはすべて克服していかなくてはいかない。壁はよじ登り障害物は跳び越えて。建物を屋根から屋根へ、ビルをその屋上から屋上へと飛び移って自在に町を移動して行くの。しかも美しくよ。美しくなければ意味がない。そうして鳥のように自由になるの。ビルを飛び移りながら見下ろすと、通りを歩く人々がすごくちっぽけに見える。それだけじゃない。歴史や国境や人種も、そういったものをひと跳びで越えていくの。それがわたしの求める究極のフリーランニングよ」

「危険だね」

 そのくらいはマモルにも理解できました。

「決まってるじゃない。いいえ違う。危険だからって怖気づいてちゃだめ。危険だって分かっていたってガンガンチャレンジしていくの。もちろん繊細なバランス感覚と細心の注意を払って。そしてそれを易々とかつ美しく決めて見せる。壁も煙突も、限界だって乗り越えていくのよ。そしていつか鳥になる。それがわたしのフリーランニングにおけるパフォーマンスよ」

 アリスはそう言うと、再びひとりうなずいたのです。

 フリーランニングの存在を、その時マモルは始めて知りました。彼には無縁の世界なのは良く分かりました。

 アリスと名乗る女の子の話を聞きながら、彼女のジャージのお尻の黒い染みをいつ彼女に教えたらいいか、マモルはそのことで悩んでいました。そしてなぜ彼女は、突然マモルの前に現れたのでしょうか。

「なにニヤニヤしてるのよ」

 アリスにピシャリと言われ、結局お尻の染みのことは言い出せませんでした。

 幸い料理もサービスも、とびきりとは言えないまでも満足できるものでした。結局店の支払いはマモルが済ませました。

 先に店を出ていたアリスは歩道に立って、当然のことのように胸を張っていました。

 通りに出るとアリスは、『ご馳走さま』も言わずに駆け出しました。

 呆然と見守るマモルの眼前で、アリスは通りの突き当たりにある高さが二メートル以上もありそうなレンガ塀に飛びつき、声をかけるチャンスも与えずに塀の向こう側に消えてしまったのです。

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 マモルは塀の前まで走って行き、少し脇の汚れたゴミ箱の上に苦労してよじ登って塀の反対側を覗き込みました。そこに着地に失敗して倒れこみ、もがいているアリスがいやしないかと期待して。

 ささやかな期待は叶いませんでした。アリスにとってはその程度のレンガ塀を乗り越えることなんか、ただで夕食にありつくくらい易しいことなのでしょう。

 じめついたレンガ塀を掴み、彼女が駆け抜けて行ったであろう石積みの建物が作る細い隙間を見つめました。もしかしたら彼女はその狭い隙間を屋根目がけてかけ上って行ったのかもしれません。

 見上げると建物で切り取られた細長い空を、ちょうど英国航空の旅客機が横切っていくところでした。

 アリスはどこへ行ってしまったのでしょう?

 屋根から屋根。屋上から屋上へと自在に飛び移り、ロンドンの町を駆け抜けて行ったのでしょうか。

 あるいは木箱の上に落ちる前にいたかもしれない、高くて遠いどこかへ戻って行ってしまったのでしょうか? 

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 ロンドンに滞在している間、アリスには二度と会うことはできませんでした。マモルは、お尻の二つの染みのこと以外に彼女に言わなくてはいけないことがあるような気がしていたのです。

 ポートベローロードでもペチコートレーンでも、見上げるといつもそこには街並みに切り取られたロンドンの空がありましたが、そこを自由に跳び回るアリスの姿を見つけることはできませんでした。孤独な男を見つけて、ふわりと地上に舞い降りてくるアリスの姿を。