好きになった瞬間の切り取り方|村神千紘

私、村神千紘が日常見かけたなにげない風景や流れてゆく時間の中で感じたこと、手の届く物、届かない物でも興味を惹かれたものについて、現在進行、あるいは少し昔を振り返ったりしながら書いていきたいと思います。

天使の見つけ方 〜 プロローグ 〜

    プロローグ

 その日は朝から南風が強く吹いていました。

 梅雨が明けようとしているようでした。

 その頃の私はお金もなく親しい友達もなくそして道に迷っていました。

 それでも時間だけは有り余っていた私は毎日多摩川へ出て堤防の上のサイクリングロードを歩きました。

 晴れた日も曇った日もありました。

 もちろん雨の日だってありましたがそれでも私はびしょ濡れになっても歩いて行ったのです。

 そこがお気に入りの場所だったからです。

 

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 緑道が数メートル先で堤防に突き当たる辺りを歩いている時でした。

 突然視野の端を白いものがよぎりました。

 そこはずっと昔に貨物の引込み線が敷設されていた跡地に作られた緑道でした。

 紙でした。

 数枚の白い紙が風に舞っていたのです。

 その中の一枚が季節はずれの風花みたいに私の方へ舞い落ちてきました。

 慌ててそれをつかみました。

 画用紙でした。

 毛深い動物の足のようなものが描かれていました。

 ひっくり返して見直してみると翼のようにも見えました。

 

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 画用紙をつかんだまま堤防の斜面を駆け上りました。

 まず目に入ったのが小さな背中でした。

 次に対岸の私鉄の駅ビルが見え駅ビルを囲むマンション群が見えました。

 それらはモザイクタイルのように低層住宅が埋め尽くした丘陵を背景にして要塞のように立ち上がっています。

 五十メートルくらい下流に懸かった鉄橋をちょうど私鉄の列車が渡っていました。

 私は小さな背中に視線を戻しました。

 堤防の斜面に座った女の子の背中でした。

 女の子は膝の上に拡げたスケッチブックに屈み込むようにして鉛筆を握った左手を忙しく動かしていました。

 周囲にはほとんど注意を払っていないように見えました。

 画用紙の上を不規則にけれどもリズミカルに動く女の子の左手を見ていると時間の流れが切り替わっていくような気がしました。

 それは私が乗りそこねてしまった時間とも取り残された私自身の時間とも違っているようでした。

 南風は河川敷に拡がった一面の緑を揺らしながら水の匂いを運んでいました。

 

 私は一歩踏み出して女の子の肩越しにスケッチブックを覗き込みました。

 画用紙には目の前の風景はまだ現われていませんでした。

 時々女の子は鉛筆を止め右手で画用紙を勢い良く破り取るとそれを自分の横の草の上にたたきつけるように置きました。

 女の子の横にはそうやって破り取られた画用紙が何枚もでたらめに拡がっていました。

 その中の数枚が風に飛ばされていたのです。

 画用紙にはいつになっても私が予想したものは現れてきません。

 女の子の後ろに立ったままスケッチブックと目の前の風景を見比べていました。

 

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 次に女の子を見たのは数日後のことです。

 私は川向こうにある古本屋へ行こうとしていました。

 女の子はサンドイッチを食べていました。

 空は気持ちよく晴れていて川面を渡る風が堤防の上をきまぐれに吹き抜けていました。

 目の前で風は女の子の膝の上のナプキンを舞い上げました。

 舞い上がったナプキンは白い小鳩に見えました。

 その時ナプキンを追う女の子の視線が私をとらえました。

 女の子の左手が伸びたのとほとんど同時でした。

 女の子の左手にはサンドイッチがひと切れ握られていました。

 お腹が鳴りました。

 空腹だったのです。

 その頃私はいつも空腹でした。

 遠慮なくいただきます。

 私は右手を差し出しました。

「よかったらどうぞ」と女の子は言って首を傾げました。

 勘違いというものはえてして喜劇的な側面が大きいものです。

 女の子は舞い上がったナプキンを押えようと手を伸ばしただけでたまたまその手にサンドイッチを握っていただけだったのでしょう。


 気が付くと堤防に座り女の子と並んでサンドイッチを食べていました。

 それまでに自己紹介を済ませ彼女に飲み物の希望を聞き近くの自動販売機に缶コーヒーを二本買いに走っていました。

 私にはそこまでの記憶がありません。

 我に返った時にはびっしょりと汗をかいた自分が女の子の横にサンドイッチと缶コーヒーを握ってぎこちなく座っていたのです。


 サンドイッチを食べ終わると女の子はスケッチブックに戻っていきました。

 しばらくの間私はその場に座っていました。

 私はなにを待っていたのでしょう。

 

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 三度目に女の子を見たのも同じ場所でした。

 私は女の子の隣に座り川の流れとスケッチブックを黙って見ていました。

 私が予想していたもの。

 私が白いページに描かれるはずだと思う形態はいつになっても現れてきませんでした。

 女の子は言いました。

「先入観が物事の本質を見誤らせることって結構多いの」

 女の子はひとりうなずきました。

「外で絵を描いているからって風景をスケッチしているとは限らない。そういうこと」

 私はうなずきました。

「アトリエで仕事をしているからって静物のデッサンばかりしているとは限らないように。多くの人が常識にとらわれるあまり見えているはずのものを見落としてしまっている」

 仮に自分が絵描きで裸の女性が目の前いたとしたらどうするだろうと考えていました。

「そんな時はしっかりデッサンしなくちゃモデルさんに失礼よね」

 その時私はたぶん顔を真っ赤にしていたのでしょう。

 そんなこともあって女の子の特殊な能力には気付きもしませんでした。

 女の子の横で私は額の汗を大慌てで拭っていました。

 ところで女の子はなにを描いていたのでしょう。

 

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 季節は夏を過ぎ秋へと移っていきました。

 


 最後に女の子を見たのは多摩川に懸かった橋から私鉄の駅へと続く広い通りでした。

 女の子は通りの歩道を駅へ向かって歩いていました。

 追いかけませんでした。

 小柄な後ろ姿がすぐに人混みに紛れてしまったから?

 またそのうち会えると思ったから?

 違います。

 勇気がなかったからです。

 追いかけて呼び止める勇気がなかったのです。

 呼び止めてどう話しかけたらいいのか。

 堤防ではなく通りで声をかけられて女の子が迷惑するのではないのか。

 知らんぷりをされたら格好悪いし。

 その時の私はそんなことしか考えられなかったのです。

 人混みに消えて行く後ろ姿はなぜか記憶に焼き付きました。

 片腕にスケッチブックを抱え背中に白いデイパックを背負った小さな後ろ姿でした。

 それは白い羽根を持った天使でした。

 特殊な使命を帯びて人間社会に忍び込み密かに活動をしているそんな天使に見えたのです。

 それはどんな使命なんでしょう。

 すくなくともそれは私のような孤独な人間を慰めるというような種類のものではなかったのでしょうね。

 きっと。

 その後女の子には二度と会えませんでした。

 

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 初めて話した時女の子は言いました。

『鉄橋を渡った時列車の窓からこの堤防が見えたの。そして次の駅で降りたってわけ。この場所はひと目で気に入ったわ』

 女の子がどこに住んでいたのか。

 そして彼女がなにを描いていたのか。

 分からないままでした。

 聞いてみたいこと話してみたいことが山のように残っていました。

 リストにしたら短編小説くらいの長さになったかもしれません。

 女の子はいったいどこからきてそしてどこへ行ってしまったのでしょう。