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好きになった瞬間の切り取り方|村神千紘

私、村神千紘が日常見かけたなにげない風景や流れてゆく時間の中で感じたこと、手の届く物、届かない物でも興味を惹かれたものについて、現在進行、あるいは少し昔を振り返ったりしながら書いていきたいと思います。

ヴィブモン・ディモンシュ、葉山、Cafe Sorte、ブック・カフェ・ギャラリー PNB-1253 のこと

第6日目はカフェについて書いていきたいと思います。
数年前になりますが、休みが取れると気になっているカフェだけを目的に遠出をしていた時期がありました。情報はカフェ好きな方々のブログなどからいただいて、その中で自分のフィーリングに合いそうなカフェを選びました。

そんなカフェをいくつか紹介したいと思います。

1件目はあまりにも有名過ぎて、わざわざ私が紹介する必要もないのですが、カフェ好きには避けて通れない一軒だと思いますので紹介したいと思います。

鎌倉の『カフェ・ヴィブモン・ディモンシュ』。

鎌倉駅前から小町通り鶴岡八幡宮方向に進み最初の通りを左に入って数十メートル先の右側にあります。店先の2客のベンチが目印です。

店名はフランス映画、『日曜日が待ち遠しい!」(原題「Vivement Dimanche」)から取られているそうです。

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数回しか行っていませんが、一度だけマスターがカウンターにいらしたことがありました。

『カフェ・ヴィブモン・ディモンシュ』をというよりも、堀内隆志さんを知ったのは、実を言いますと永井宏という人を通してだったのです。

永井さんの著書を初めて手にしたのは、渋谷パルコの地下にあったリブロでした。

リブロが私にとっての、永井さんへの、あるいはサンライトギャラリーへの、そして葉山カルチャーへの扉だったのです。

もちろんそれまでに、葉山へは何度も行ったことはありました。学生時代、冬の一ケ月、暮らしたこともありましたし、葉山マリーナのプールで開かれていたコンサートへも行きました。

でも、リブロで開いた扉から覗いた葉山は、私の認識の中の葉山とは少し位相の違った葉山だったみたいです。

その証拠に、その後何度も葉山へ行っていますが、やっぱり永井さんを通して覗き込んでいた葉山は、別の場所にあるような感じを抱き続けたままだからです。

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私はクリエーターでもアーチストでもないので、サンライトギャラリーにふさわしい人間ではないことは分かっているのですが、永井さんの著作を読みながら、自分をその空間において、空間によって自分が、また自分の存在によってその空間がどのように有機的に変化するだろうか、ということをイメージするのは好きでした。

それは自分にとって、とても心安らぐ豊かな時間だったのです。

2001年に短編小説集『雲ができるまで』(復刻版)が発売され、帯に堀内さんのコメントがありました。そして、たぶん堀内さんがモデルになったのが『カフェ』という一編なんだと思います。

そして、永井さんが出版した、『ロマンティックに生きようと決めた理由』で、まだ顔も知らない堀内さんの文章に触れたのです。2003年のことです。

永井宏さんについては、別の機会に改めて書きたいと思います。

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紹介すると書いておきながら、肝心のお店についてほとんど紹介できていませんが、多くのブロガーさんが素敵に、上手に紹介されているのでそちらをお読みいただき、今まで機会のなかった方は是非『カフェ・ヴィブモン・ディモンシュ』へ行ってみてください。

まったりとした雰囲気の、笑顔の素敵なマスターに会えますよ。

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2件目は埼玉県日高市梅原にある『Cafe Sorte』です。

県道15号線を川越から秩父方向へ走り、日高陸橋を過ぎて約2キロ先の右側にお店はありました。

訪ねたのは数年前の12月30日でした。営業されているか不安でしたが、幸いお店はオープンしていました。

外観は古い蔵を手直ししただけに見えましたが、内部は窓こそ小さいものの、天井の高い落ち着いた空間になっていました。頭上を左右に梁が通り、一部中二階のようなスペースもあるようです。

左手奥のカウンターに店主の近藤佐代子さんがいました。『wagasiasobi』の浅野理生さんに似ている、と思いました。ルックスは違っているので、彼女の職人的な部分から生まれる雰囲気がそう感じさせたのでしょうか?

近藤さんはバンクーバーバリスタの修業をしてきたそうです。

年末の中途半端な時間だったためか、来店するお客さんがいなかったので、近藤さんから色々とお話が聞けました。

土蔵の改修、土づくりから始まり、木舞をかいて手作業で土壁を塗り直して、4ヶ月前にカフェをオープンした話。

土壁の塗り替えは、ストローベイルと呼ばれる藁のブロックと土で家づくりをしているカイルさんという人に手助けで、家の前にで大きな舟を作って土づくりをしたこと。

ストローベイルという建築工法があることを初めて知りました。

出身は飯能市をはさんだ東京都のA市で、パートナーは園芸関係の方で、などなど。

『グーグルマップで住所から検索すると、数百メートル離れた南西の農地が表示されてしまう』とか、『ストリートビューで見られるのは、ポツンと残った改装前の土蔵だけ』なんてお話をしたのを今でも覚えています。

その後、お子さんも生まれて育児と営業を両立させているようです。

今ではグーグルマップでも正しい位置が表示されますし、ストリートビューでしっかりとお店が確認できます。

私が訪ねた日から数年経っています。どなたか行かれた方で、どんなお話をされたか、是非お聞かせください。

 

3件目は同じ埼玉県皆野町の『ブック・カフェ・ギャラリー PNB-1253』です。

三沢川が荒川に合流する辺りで、近くには長瀞のライン下り舟乗場があります。

茶色い板壁の建物です。入口を入ると小さなギャラリーで、その奥がカフェになっています。

カフェスペースに入った左手にストーブがあって、背後の白い壁がもこもこと波を打っています。これは、ストローベイルという藁のブロックと土で作った壁らしいです。

ベンチも藁のブロックと土で作られているようです。

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カフェスペースの正面にカウンターがあります。

カウンターの右手には書棚があって、古書の販売もしています。

何冊か手に取ってみました。その中に、『住宅作家になるためのノート』という本がありました。

しばらく悩んで、結局書棚に戻してしまいました。読んだことのある文庫も何冊かありました。

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窓から見渡せるのは近い山並みに包まれるような小さな盆地状になった、のどかな農地です。

日は山の端に隠れ、薄い煙がゆっくりと盆地に流れ込んでいるように見えました。

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店を出て、車に乗り込む前に少し畦道を歩いてみました。

土と枯草の匂い、どこかで枯れ枝でも焼いているような匂いとひんやりとした冬の空気が鼻腔を刺し、記憶のどこかをくすぐります。

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記憶の迷路を彷徨っているうちに、冬の薄闇がゆっくりと漂い始めていました。

夜の闇が急ぎ足で近付く中、帰路につきました。

車窓を過ぎる、街灯や家々の明かりに交じって『住宅作家になるためのノート』のライムグリーンの表紙が浮かんで見えました。

購入しなかったことを後悔し始めた時には、寄居の町の明かりが見えていました。

帰宅後、就寝前にアマゾンで『住宅作家になるためのノート』を見つけて購入しましたが、なぜカフェで見つけた時に購入しなかったのだろう、売り手と買い手がダイレクトにつながっている状況をみすみす放り出してしまって、という後悔がしばらくの間、煙のように頭の中に漂っていました。

物を買うことって、その行為の意味や価値のすべてがその物のなかに丸ごとあるとは限らないのです。

作り上げられたものの持つ機能としての価値と、それを作り上げるまでに費やした時間と過程の持つ価値が、必ずしもイコールではないように。

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住宅作家になるためのノート』。いい本です。

 

カフェについてはこれからも書いていきたいと思います。

誰でも、お気に入りの、とびきり素敵なカフェをいくつかお持ちなのではないでしょうか?

もしそんなカフェがありましたら、是非教えてください。

価値観を共有できそうなお店があれば、時間を作ってすっ飛んで行きたいと思います。

よろしくお願いいたします。

ハート・アンド・ソウル。とりあえず多摩川へでも

第5日目は好きな風景のひとつ、多摩川について書いていきたいと思います。

二十代のころ、約十年ほど多摩川沿いの町に住んでいたことがあります。
恋をしていた時も、失恋した時も、一人ぼっちの時も、道に迷っていた時も、いつもそこに多摩川がありました。

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私にとっての多摩川の景観は、堤防から見渡すことのできた、多摩市の丘陵を背にゆったりと流れる広々とした多摩川です。それほど整備がされていない河川敷には人影も少なくて、へらぶなを狙う釣り人か飼い犬を放して運動させる人、フライフィッシングの練習をする人、あまりぱっとしないカップルが見える程度でした。でもそれが、私が一番好きな多摩川の景観でした。

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もちろん、奥多摩や青梅の人なら、渓谷の景観が一番素晴らしい、と主張されるかもしれません。

羽村福生に住む人なら、羽村の堰の景観が素晴らしい。立川や日野の人なら、くじら公園周辺の川床から突出した岩板の形成する、くじら岩の独特の景観が一番だ。

ずっと下って、狛江や登戸の人なら、多摩川水道橋か五本松の景観でしょう、向ケ丘遊園も見えるし、と。

世田谷や川崎の人だったら、二子玉川緑地や丸子橋周辺。

大田区の人なら、六郷橋周辺の、いやいやガス橋周辺の方が上でしょう、と。

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景観に限らず、好みというものは人、ひとりひとり違っていて当然で、また、誰がなにを人に誇れるものとして持っているかも、人それぞれです。

自転車で羽村の堰から二子玉川の手前、野川が合流する辺りまで行ったことがあります。当時でも、ごく一部を除いてサイクリングロードが整備されたいたと記憶しています。日野橋の辺りと拝島橋の先は一般道を走ったと思います。

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天気は申し分ありませんでした。
サイクリングロードを、川の流れと並走するようにしてゆっくりと下って行くと、どの町の景観も豊かな個性と広がりをもって迎えてくれました。
カセットケースサイズのウォークマン、WM−20をウェストポーチに入れて、ジャーニーやトト、ボストンを聞きながら走りました。
途中、土手に座って自販機で買ったコーラを飲み、古い食料品店で買ったジャムパンとアンドーナツを取水堰の端に座り、川面を見下しながら食べました。

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先の見通せない単調な日常の中、一日の苛々や焦りのやり場を見つけられずに私鉄列車の吊革につかまっていたような時も、窓から多摩川が見えると、不思議とその瞬間に苛々や焦りがすーっと引いていくのが感じられました。

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一日中誰とも話さなかった日、夕方になって多摩川に出ると、灰色の雲が波立ちうねる海面を引っくり返したように低く垂れこめていました。波立ちのひとつひとつがくっきりとしていて、それぞれが感情を持って身悶えするように蠢いて見えました。
やがて夜が訪れて、闇が彼らの姿を塗り潰していきましたが、星の見えない黒い夜空に、彼らの息遣いがいつまでも残っているように感じられました。
たぶんその当時の自分自身への懐疑や未来に対する不信、そんな自分の置かれた状況に対する根拠のない不満なんかが、誰にぶちまけることもできずに胸の中で渦巻いていたからなのでしょう。
そんな夜もありましたが、それでも多摩川は、いつも自分の近くにいてくれる、かけがえのない大きな存在であり続けました。

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様々な事情があって多摩川沿いの町を離れることになりました。
今でも時々、あの頃の不器用で頼りない自分が、川面を渡る風を受けて堤防の上に立ち尽くしている姿が思い浮かびます。そして仮に当時の自分に語りかけることができたとしたら、今の自分は彼に語りかけるどんな言葉を持てているのだろう、と考えるのです。

コルビジェ、熊川哲也、吉田都、川久保玲。記憶が揺り起こされる場所、上野の森

第4日目は、上野の森を訪れたことについて書いていきたいと思います。

上野の森を訪れるのはずいぶん久しぶりのことです。主な目的は、動物園ではなく、また美術館でもありませんでした。バレエ公演の鑑賞で、東京文化会館を訪れることが多かったのです。

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2007年。今から10年前の5月、K−バレエカンパニー『海賊』の札幌公演で、熊川哲也が公演中に右ひざ前十字靱帯を損傷するという衝撃的な事件が起こりました。
この大怪我が、彼のその後のダンサーとしてのキャリアに大きな影を落とすことになったわけですが、そのわずか4日前の公演を、東京文化会館で見ていました。熊川哲也がアリを、吉田都がメドーラを演じた日です。

当日のアリのバリエーションを演じる熊川哲也のジャンプ、回転、着地という一連の見せ場は鬼気迫るものがあって、見ていて鳥肌が立つほどの凄さでした。彼のその後のパフォーマンスを考えると、キャリアのピークといっても良いような全盛期の公演を目撃できたわけで、そんな貴重な経験として強く印象に残っています。それは、その前年のクリスマスイブ・イブの夜、吉田都をマリー姫に迎え府中の森芸術劇場で行われたクリスマス公演、『くるみ割り人形』での感動に匹敵するかもしれません。

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あの夜の『くるみ割り人形』は、プログラムの全編にわたって、公演にかける熊川哲也の熱い思いと情熱、それを見事に体現していく吉田都を筆頭としたダンサーたちの気迫と圧倒的な存在感が際立っていて、それらと観客の思いが一体となって、バレエ公演では体験したことのない熱気に会場は包まれていました。
一点の曇りもなく演じられたグラン・パドゥドゥの余韻を長く残したまま、カーテンコールでは、客席の照明が点灯されてからもスタンディングオベーションの拍手は鳴り止みませんでした。
ディナーの予約時間があったため、カーテンコールが終わる気配なく続く中、後ろ髪を引かれるように会場を後にしましたが、あの夜の経験に匹敵するくらいの衝撃でした。

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女の子との初デートは、同じ上野の森、国立西洋美術館でした。

国立西洋美術館を含むル・コルビジエの建築作品が世界遺産に登録されましたが、コルビジエといえば、建築を学ぶ学生は必ず彼の作品に遭遇することになる大建築家ですが、彼が残したサヴォア邸は、建築されて八十年以上経過した今も、現代の建築家に大きな影響を及ぼし続けています。

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日本でいえば昭和の初頭という時代に、あのデザインと間取り、構造を提案しただけでなく、住む人にそれまでに存在しなかったはずのライフスタイルを提案したという意味でも極めて特異な存在だったはずです。たぶんあの時代のフランスでも、サヴォア邸で快適に過ごせるライフスタイルをもった人は少数だったと思います。サヴォア邸のスロープを下り浴室を覗き込んだ瞬間、なぜか川久保玲のクリエーションに通底するものをそこに感じたのは、錯覚だったでしょうか。

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現存している彼の作品は決して多くはありませんが、どれも魅力的な建築です。その中でもサヴォア邸、ロンシャンの礼拝堂、ラトゥーレット修道院は、建築を見るためだけに現地に足を運んでも後悔しない作品と言えると思います。

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東京国立博物館で『レオナルド・ダ・ヴィンチ −天才の実像』が開かれ、ダ・ヴィンチの『受胎告知』が展示されたことがありました。2007年のことです。
前年にフィレンツェへ行った際、ウフィッツィ美術館から貸し出し中だったため鑑賞できなかった作品が、世界を廻り回って東京国立博物館にきてくれた、という感じでした。

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特設されたスロープをゾロゾロと下って行き、作品の前を通り過ぎながらその数十秒の間に作品に触れる、という感じでした。
1970年代の歴史的事件として記憶されている『モナ・リザ』公開時の長蛇の列に比べればささやかな列でしたが、日本人があれほどの行列を作って鑑賞した『モナ・リザ』も、2004年のルーブルでは、クランク状に折れ曲がった通路の突き当りに展示されていて、数人ひとをかき分ければ見られるような状況でした。ただ緑がかったガラスで保護されていたため、照明も工夫されている感じでもなく、あまりきれいに見えませんでした。
現在では別の場所に展示されているようです。今でもガラスで保護されているようですが、きれいに見えているでしょうか?

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窓から上野駅の高架ホームが見渡せるレストランでランチを食べました。
手前から京浜東北線、山手線、上野東京ラインが見えます。十両以上の編成の列車が行き交っていました。
帯に高崎線東北本線常磐線のシンボルカラーが入った車両が、東京方面に出て行ったり、逆に入ってきたりする光景は、昔、上野駅を利用していた人間にとっては不思議な光景です。普通列車にグリーン席なんかはなくて、そのかわり特急列車が走っていました。
座席の上部にカードや携帯電話をかざしてチェックインし、その席から離れると自動的に料金が精算されるなんて時代がくることを、SF小説に描いた人はいたでしょうか?

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場所には、そこに係わった人々の記憶を刺激し、甦らせる力があります。

場所は、時間の経過とともに様々に有機的に変化してゆきます。しかし変わってしまったからといって人々の記憶までがフォーマットされるわけではありません。そこにまた人が集まってきて、それぞれの胸に新たな記憶を形作っていくのです。
上野の森という場所には、自分の記憶を刺激するものが確かに存在しました。目には見えなくても、場所の持つ力が存在する限り、私が生きている間は、私自身の生きてきた時間軸の中のランドマークのひとつであり続けるのでしょうね。

フィリップ・K・ディックは、ブレードランナー2の夢を見るか?

第3日目は、好きなSF小説について書いていきたいと思います。

SF小説との出会いは、小学校の図書館のジュニアシリーズ?のSF小説。内容は綺麗さっぱり忘れていますが、一つだけ覚えているシーンがあります。

主人公が敵から逃げているシーンですが、主人公は巨大な構造物の凹みのようなところに身を隠して追っ手を見ているのです。隠れている凹みは地上より高いところにあって、視界に4本の長い脚の上に短い胴と頭が載った巨大なロボットが何台も追ってくる、というシーンです。

そのロボットは、それから何年も経って見たスターウォーズに映像化されて出てきました。

読書傾向はその後、児童文学→少年探偵団→文学→推理小説と変遷してしまし、レイ・ブラッドベリを読んだくらいで、長い期間SF小説から離れていました。

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80年代初頭、映画『ブレードランナー』が公開され、その原作者だったことから、フィリップ・K・ディックを読み始めました。すでにディックは亡くなっていました。

ハヤカワ文庫では、『火星のタイムスリップ』『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』『ユービック』『高い城の男』。サンリオSF文庫の『時は乱れて』『ヴァリス』『聖なる進入』などなど。ソノラマ文庫からも短編集が出ていました。ちくま文庫新潮文庫が短編集を発売するのは、もっと後になってからでした。

サンリオSF文庫はカバーイラストがどれもシュールで、『ヴァリス』はもちろん、書店の平台に並べられていた『暗闇のスキャナー』や『最後から二番目の真実』など、藤野一友氏、中西信行氏によるカバーイラストがなぜか強く印象に残っています。

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サンリオSF文庫は、ディックの作品を中心に購入していましたが、1987年の8月、夏休みの旅行先の札幌の書店で新刊『アルベマス』を手にしたところ、それがサンリオSF文庫の最終刊と知り、愕然とした記憶があります。

旅行から戻って、リブロとパルコブックセンター、八重洲ブックセンターをはしごして、未購入だったディックの作品を買い集めた記憶があります。いまでも、ディック作品は全巻書棚に大切に並べてあります。

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ノンフィクションは、ペヨトル工房から、評論としてはサンリオや北宋社青土社から複数出されています。ほとんど所有していますが。

映画化された作品は、『ブレードランナー』のほかに『トータル・リコール』『マイノリティー・リポート』などありますが、『高い城の男』も映像化されていて、現在Amazon Fire TVならプライムで見ることができます。

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ブレードランナー』は『2』の製作が始まっているようで、来年、2017年公開予定とのことです。

他の作家では、ジョージ・オーウェル(1984年)、J.G.バラード、レイ・ブラッドベリ、カートヴォネガットJrなどでしょうか。

J.G.バラードは創元推理文庫から出ていた破滅三部作(『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』、)。『クラッシュ』。ストーリーに共通点はないはずなのですが、9.11で貿易センタービルが崩壊していく映像を眼前に、なぜか『ハイーライズ』がずっと頭に浮かんでいました。

SF小説の中に良く描かれた、空飛ぶ自動車や宇宙旅行はまだまだ現実とはなっていませんが、また最近は人類の先行きについて不安にさせる状況が世界中に広がっていますが、まだ、なんとかディックが描いたような荒廃した世界にはならず、踏み止まっているようです。そうならないように、人類の叡智に期待したいと思います。

 

 

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ZARA、H&Mを晴れ着に、コムデギャルソンを普段着に。そんな日がもうすぐ訪れる、かな?

第2日目は、好きなファッション、特に服飾について書いていきたいと思います。

VANが倒産した後の、『ポパイ』と『ホットドックプレス』から、私のファッション、服飾への関心はスタートしました。

並木通りは伝説になっていて、歩くのは公園通りにファイヤー通り、キャットストリート。入り込むのはバックドロップに文化屋雑貨店、ハリウッドランチマーケット。そんな時代です。ビームスやシップスは別格でした。

しばらくして情報源は『ブルータス』に移行していきますが、南青山や骨董通りに目が向くのは、ずっと最近になってからです。

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体型が良ければなにを着ても似合うという、悔しいけれど否定できない事実を常に眼前に突き付けられながら、それでもその時その時に自分が着たいもの、着て心地いいものを選んできました。VANの影響を受けたトラッドが多かったでしょうか?

コッパンにチノパン、ボタンダウンシャツにポロシャツ、スタジャンにクルーネックのセーター。

コッパンの裾はダブルにして、ポロシャツはラコステかアイゾットでした。

サイズ設定があるのかないのか、それが常に最優先事項でした。

ずいぶん処分しましたが、当時のもののいくつかは今もクローゼットのどこかでひっそりと眠っています。

一方で、無印もユニクロも品質重視で選んできましたし、エディフィスにシップス、アメリカン・ラグ・シーなど、バックドロップに通っていた過去をすっかり忘れてしまったかのように、アメカジ過ぎないショップを好んでセレクトしていました。ユニクロはデザイナーズ・インビテーションの時代から+Jまで、仕事に使えるアイテムが選択できてすごく便利にさせてもらいました。

ファストファッションとの遭遇は2004年のパリ。フランスでミニバスの営業をしている日本人に教えてもらった、パリのH&M。オトリュッシュ君は、アッシュ・エー・エムと呼んでいました。店舗は、確かオペラ座の裏のラ・ファイエット通りだったと思いますが、カジュアルなものからモードっぽいものまでサイズも豊富で、1ユーロ125円くらいの時代でしたが、価格設定が衝撃的でした。そのH&Mが日本に上陸し、2008年11月8日、コムデギャルソンとのコラボ商品を発売した時、銀座店の前で徹夜の行列をしたのも懐かしい思い出です。

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ラフォーレ原宿にあったトップマンもよく行きました。まだ、ロンドンへの関心が強かった時代ですね。

少し遅れてZARA

コムデギャルソンも路面店では青山本店、コルソコモ、骨董通りのヤン・コムデギャルソン、最近ではドーバーストリートマーケットでしょうか。インショップでは渋谷西武や有楽町阪急をはしごしたりしていました。

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サントノーレ通りのコムデギャルソンパリやコレットでは、ギャルソンシャツの価格設定が日本の価格設定よりぐんと低かったのですが、立ち上がりから何ヶ月も経っているのでサイズが残ってなく、悔しい思いで仕方なくパルファムを購入したりしました。

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デザインが小さ目だったり、ユニセックスのものがあったり、ほかのブランドではあまり見かけないエステルの縮絨の独特の風合いと着心地。価格を無視できるのなら、全アイテム揃えたいくらいでした。今でも時々ですが、大切に着用しています。

ファッション、は文字どおり変わっていくものですし、同じように服飾に対する好みは変わってゆくと思いますが、自分なりのものとして、これからも大切にしていきたいと思っています。

 

 

 

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代官山は、手が届きそうでいつも指先のほんの先にある憧れの街だった

このブログは、私、村神千紘が日常見かけたなにげない風景や流れてゆく時間の中で感じたこと、手の届く物、届かない物でも興味を惹かれたものについて、現在進行、あるいは少し昔を振り返ったりしながら書いていきたいと思います。

どんなに小さな気付きでも、どんなささいな記憶でも、形のあるもの、形のないもの係わらず、同じ空の下で、同じ空気を呼吸している誰かと共有していけたら幸せなことだと思います。

第1日目は、好きな風景について書いていきたいと思います。

若い頃は、とにかく新しいもの、未来をイメージさせるもの、そんな建築物や広告物がかたち作る景観に強く関心を引かれていました。

高度経済成長を成し遂げ、オイルショックなど好況、不況の波を乗り越えながらバブルに向かっていた街は、なんだか立ち止まっていることに罪悪感を抱かなければいけないような、後ろめたいような気持にさせる雰囲気を持っていました。

派手に消費をする人々の様子が情報で発信され、その反面、自分の生活を見ると、学生のころと比べて特段派手にも豊かにもなっていませんでしたし、NTTの1株100万円以上もする株式の発売に殺到する人々の様子が盛んに報じられる中、自分の銀行口座には1株購入を申し込む残高もない事実から、自分は映像の向こう側の人々の一員にはなることはないだろうということは理解していました。

それでも技術の進歩が未来を明るく照らしている、というイメージを大した疑いもなく受け入れていたように思います。

ちょっと振り返ってみれば、技術の発展の陰で、公害や交通戦争など人々がけっして幸せにならない事件が起こっていて、それは報道で知識として認知できていたはずなのですが。

たとえば代官山にあるヒルサイドテラス。まだCADなんてない時代に、課題で図面をコピーした記憶は懐かしいですが、当時から三十年以上たった今でも、あの頃よりも華やかでキラキラしていて、一般の人間が垣間見れる商業施設としては、時代を作りながら有機的に町並みをかたち作り続けているように感じられます。

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その反面、代官山の駅前にあった同潤会代官山アパートも代官山アドレスに建替えられていますが、当時新しいものしか目に入らなかった私には、同潤会アパートも『古い集合住宅が、一風変わった景観を作っているな』というくらいの印象しか持てなかったことを、いま、すごく残念に感じています。

建築物にはそれぞれその寿命があって、更新されていくのは不自然なことではなく、また、東京という世界に類を見ない都市は、更新されていくことで都市としての機能を高め、人々の関心を引き付け、その魅力を増してきたことは否定できません。

代官山アドレスのような高密度な施設がそびえ立つ一方で、木造二階建ての商家や住宅を改修したレストランやカフェ、洋品店や雑貨店など小さなお店が存在して独特のトレンドを発信している様子は、旧山手通りに蔦屋書店ができて立ち止まる人もいなかった場所に大きな人の流れを作ったような再開発事業に比べれば、規模は本当に小さいけれど都市のダイナミズムを皮膚感覚で感じさせてくれるものですよね。

なくなってしまいましたが、アドレスタワーの真下のような場所にあったeau cafeや、キャッスル通りのシェルタ、まだまだ頑張っていますが、鉢山町交番の隣の小さなフレンチレストラン。キャッスル通りには、デザイナーさんの手作りシャツを置いたショップもありました。

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未知のものに対する関心ばかりが大きい時は、既知の物事の中に存在する価値を見過ごしてしまいがちですが、そういったものを察知できる感性に優れた人たちもたくさんいて、無機質の中に有機的な色合いを加えてくれているように、コンクリートやスチールの構造物が創る景観の中に、古いものと新しいものをミックスあるいは融合させた、きらりと光る宝石のようなものをちりばめてくれていたんだなあと、最近ようやく気付けたところです。

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また、都市部だけではなく、郊外にもさりげないけれど心休まる風景がたくさんあります。

都市部に比較すれば変化のスピードはずいぶんゆっくりですが、それでも少しずつその表情を変えてゆく様子は新鮮ですし、スピードがゆっくりな分、心安らげるものにもなっています。

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そういったものをひとつひとつ見つけて、自分なりのフィルターに通して記憶して、記録して、大切な風景として残していけたらな、と思います。

 

 

 

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