長井ハイツと長井町と、永井宏さんのこと
第9日目は荒崎について書いていきたいと思います。
荒崎での夏の合宿中に、一日か二日、練習が休みになる日がありました。自宅に帰る部員や女の子とのデートに出かける部員がいる中、そんな予定のない残った数人で岬の反対側にある、長浜という海水浴場へ行きました。
岬の先の岩場伝いに、「長浜なら、若い女の子がいっぱい海水浴にきているから声をかけ放題だぞ」などと口々に白い砂浜まで歩きました。
天気は申し分なく良かったのだけれど、長浜海水浴場には、海水浴客の姿がありませんでした。もちろん声をかけたくなるような若い女の子も。
泳ぎ飽きた海で少し泳ぎ、暇そうな売店でコーラを飲んで、すっかり盛り下がった気分のまま、合宿所へ戻ることになりました。
海水浴場の背後は丘陵になっていて、丘陵一面を野菜畑が埋めていました。丘陵と海岸の境界が、一部、白い砂の崖になっていて、砂浜から見上げると崖の上の野菜畑の中で農作業をしている姿が見えました。
時間は有り余っていたので、丘陵の上を通って帰ることにしました。岬を突っ切る農道が一番の近道だったのですけれど、予定が狂って時間も早かったので違う道から帰ることにしたのです。
白い崖を横目に坂道を上り切ると、周囲を高いフェンスで囲まれたレーダー施設がありました。そこを過ぎると丘陵は平坦になりました。視界の先まで野菜畑が波立つように広がっています。
しばらく歩くと、唐突なかたちで住宅地が現れました。見慣れない造りの家が十数軒、本当に唐突な感じで建ち並んでいたのです。右手の林の上にコンクリートの給水塔が見え、住宅には芝の広い前庭がありました。外壁は板材が横向きに張られ、ペンキで白く塗装されていました。屋根は勾配が緩く、日本の瓦よりずっと薄い瓦で葺かれていました。玄関ドアも窓も木製で、ガラスの内側に花柄のカーテンが引かれているのが見えました。古くなった、輸入住宅の展示場みたいだ、と思いました。もちろん当時そんな展示場を見たことはなかったけれど。
記憶の中から、アメリカ映画で見た郊外住宅地の風景と横田基地の周辺の雰囲気が思い浮かんだのを、今でもよく覚えています。
その十数軒の家々は、アスファルトで舗装された広い道路をはさんで、向かい合うように建てられていました。道路の反対側には広い芝生の前庭がありましたが、人の気配はありませんでした。
交差点に出ると、不自然に真っ直ぐで不必要なくらい幅の広いアスファルトの道路が直交していました。不自然に真っ直ぐで不必要なくらい幅の広いアスファルトの道路は、包丁を入れたように丘陵を真っ直ぐに切り裂いていました。
そこは第二次世界大戦当時、旧帝国海軍の基地として造られ、終戦後に米軍に接収されて、昭和の終わりくらいまで横須賀基地に配属された米兵の家族のための住宅だったのです。不自然に真っ直ぐで不必要なくらい幅の広いアスファルトの道路は、旧帝国海軍が造った滑走路だったのです。定かではありませんが、海から吹き付ける風が、離陸には最適だったというようなことをなにかで読んだ記憶があります。
当時、メインストリームのカルチャーのベクトルは、アメリカから日本への一方通行的な太さでしたから、意味もなくアメリカへの好奇心を掻き立てられたのを覚えています。今は、『長井海の手公園ソレイユの丘』と命名された南仏風の農業体験型の公園施設になっていますが、そのあたりの経緯については、ずいぶん後になってから『長井の風』というブログで知りました。
米軍住宅は「長井ハイツ」と呼ばれていたそうで、記事には当時の写真やエピソードなどが丁寧に記されていました。ブログはすでに閉鎖されたのか現在は閲覧できません。「長井ハイツ」について、ブログ主に直接会って話を聞きたいとも思っていました。是非、再開して欲しいと思っています。
住宅は、数ブロックを構成していただけで、そこを過ぎると再び唐突なかたちで消え失せ、畑が広がる丘陵に戻りました。
その年を最後に、荒崎へ合宿で行くことがなくなり、あの日見た風景をもう一度確かめたいと思いながらも、「長井ハイツ」を再訪する機会は作れませんでした。
この頃体験したことをモチーフにして、『海風が、波を描いている』という小説のいくつかのシーンを書きました。小説に書いとことをきっかけに、「長井ハイツ」があった丘陵を再訪した時には、『長井海の手公園ソレイユの丘』に姿を変えていて、もちろん給水塔もなく、「不自然に真っ直ぐで不必要なくらい幅の広いアスファルトの道路」の面影を広い駐車場になんとか重ね合わせられただけでした。
数十年の時が経過した今も、私の中では、鮮やかでくっきりとした記憶として残っています。とても大切な記憶として。
P.S.
以前、『カフェ・ヴィブモン・ディモンシュ』について書いた時に、永井宏という人のことを書きました。葉山カルチャーを作り上げた人の一人だと思っている人ですが、東日本大震災が発生した翌月の4月に亡くなったのですが、その永井さんの通夜と葬儀が行われたのが、長井町にある長徳寺でした。
あの日から、8年が経ちます。
三浦半島、荒崎と旅客機とトンビと
第8日目は航空機とひこうき雲について書いていきたいと思います。
神奈川県横須賀市、三浦半島の先端に近い相模湾に面して長井町という町があります。葉山方面から三崎口に向かい、自衛隊の駐屯地の先で海沿いの道に入り、行き止まりまで行くと岬があります。それが荒崎という小さな岬で、その手前に荒井という小さな漁港と集落があるのです。
学生の頃、その荒井漁港に面した集落で夏の一ケ月間合宿生活をしていたことがありました。当時は商店が二軒、釣り人を対象にした民宿が一件、食堂はなかったと思います。もちろんおしゃれなカフェもレストランもありませんでした。路線バスの終点で、集落の広場でバスが折り返していました。
バスが転回する広場に面して商店と住宅のほかに、古い集会所と公衆トイレ、漁具置場が並んでいるだけでした。秋冬の合宿地の森戸海岸から夏の合宿地に船を回航させ時、船外機付きのボートに揺られながら回航先の港と小さな集落を初めて認識した時の光景が、少し左右にふらついてはいるものの、ありありと記憶の中に映像として残っています。
荒井の集落には取り立てて華やかなものはありませんでしたが、ウルトラマンや仮面ライダー、桃井かおりが主演した映画のロケ地に使われたことがありました。神社があり、岬があり、小型の漁船と少しのヨットが見え、昼下がりには老人たちが道端に座って漁網の繕いなんかをしていて、その陰を無数のフナムシが這い回る、のどかな漁港でした。上空を何羽ものトンビが舞い、ひっそりとした集落に彼らの鳴き声を響かせていました。
晴れ渡った空を見上げれば、ジェットエンジンの音を後方に置き去りにした航空機が、東から西へ向かって一直線に飛んで行くのがはっきりと見えました。見上げている間、少しずつ違った航路を選んで飛行する航空機が、数分の間隔で見えるのです。たぶん、羽田から関西方面の都市に向かっている旅客機なのでしょうね。
旅客機を見ていると、まだ自分が行ったことのない土地や国のイメージが湧き上がってきます。なぜか、お尻のあたりがざわざわ、むずむずしてきて、自分も旅立ちたいと思うのです。重くかさ張るスーツケースを転がしながら、国際空港に足を踏み入れた瞬間の空気感や、館内に流れる外国語のアナウンスや独特なチャイムの音。人々のざわめき。スーツケースを預けて身軽になり、無事にセキュリティーチェックを通った後のなんともいえない解放感をまた感じたいと。
ここ数年は、海外旅行をしていません。
それは決してネガティブな理由からではないのですが、今後、あの時のような感覚を味わえる日がまた、くるでしょうか?
P.S.
荒井漁港には食堂はありませんが、隣の長井漆山漁港には、漁港に面して「あらさき亭」という地場の魚を食べられるレストランがあります。
荒崎を訪ねた際には、ぜひどうぞ。
天使の見つけ方 〜 エピソード① 〜
エピソード ①
その年のロンドンには、巨大な観覧車もテートモダンもガーキンすらありませんでした。
夏の夕方でした。
マモルはキングスクロス駅に続く通りを歩いていました。ウォルサムストゥーへ行った帰りで、マモルが泊まっていたのはユーストン駅に近い安ホテルだったので、ホテルに戻る前に夕食ができる店がないか、探していたのです。
奇妙な状況に遭遇したのは、薄暗い路地の向こうにカフェの立て看板を見つけて立ち止まった時でした。
マモルはカフェに行くのにその路地に踏み込もうか、それとも遠回りになっても安全な広い通りを回って行こうか悩んでいたのです。
レストランはひとりぼっちでは入りにくいし、パブの酔客の騒がしさにはうんざりしていて、落ち着ける店が良かったのです。
そんなわけでマモルは小さなカフェを探していました。ロンドンの小さなカフェは、マモルのような気弱な旅行者には合っているようでした。
路地の入口で、そんなことをぼんやり考えていた時でした。路地を湿った風が吹き抜けていったのです。
マモルは周囲を見回しました。
もちろん風なんか見えません。
『日本人!』と呼びかけられたのは安全な通りを行こうと歩き始めた時でした。
もちろんマモルは日本人でしたが、日本語で『日本人』と呼ばれる経験はそうはありません。『チャイニーズ』とか『コリアン』とか言われることはよくありましたが。
声の主を探して改めて回りを見回しました。
マモルに声を、それも日本語でかけてきそうな人物は通りに見つけられませんでした。
黒人のカップルがそんなマモルを、気味悪そうに見ながらすれ違って行きました。
風の音だったのでしょうか?
風切音が『日本人』、なんて聞こえることがあるのでしょうか?
マモルはそこから通りを一街区進み、角を二回曲がってカフェの前へたどり着きました。
メニューボードを確認します。
そこに書かれた料理を確かめて、あらかじめ注文するものを決めておくためです。英語のメニューを前にすると、軽いパニック状態に陥ってしまうからです。
メニューを前に、一向に注文するものを決められない、なんて状態に陥り、結局先客のテーブルの料理を指差すなんてことをマモルは何度も繰り返していました。
それはそれで未知の料理に挑戦できるチャンスと考えれば悪くはありませんし、英語を理解できない気の毒な東洋人だと同情され、逆に親切にされたりもしました。
でも旅を始めて数日経って、ささやかながら学習できました。
店に入る前に注文するものを決めてしまえば良いのです。
そんなわけでマモルが立ち寄る店は、外からメニューが確認できる店か写真で料理を選べる店に限定されていきました。
豆料理にするか白身の魚をメインとした料理にするか、決めあぐねていた時でした。
背後を風が吹き抜ける気配がしました。
続いて、なにかの箱のようなものを押しつぶす音がしました。
「イテッ」
振り返ると路地の入口のひしゃげた木箱の上に、手足をばたつかせてもがいている人影がありました。
「チクショー」
人影が言いました。
それは白いジャージの上下にニット帽を目深に被った小さな人影でした。
なにごとかと見ていると、金色のスニーカーを履いた足をなんとか通りに下ろして小さな人影は立ち上がりました。
「クッソー」とその人物は毒づいて木箱を蹴り付けました。
気の毒な木箱を見つめるマモルに、人影は言いました。
「その店はやめといた方が良いよ」
日本語で聞こえたのは女性の声でした。
声の主がニット帽を取りました。
「サービスは最低で、その上うまくない」
ニット帽の下から現れたのは、短い黒髪の同年代に見える女の子の顔でした。
ニット帽で自分の腰の辺りをはたきながら、女の子は続けました。
「ついておいでよ。安くてうまい店を教えてあげる」
女の子はそう言うと脱げかけたスニーカーをトントンやりながら、通りを歩き始めました。
マモルは慌てて彼女に続きました。
通りを進む彼女の白いジャージのお尻には、黒い染みが二つ丸く付いていました。猿のお尻みたいに。
どのくらい歩いたでしょうか。山手線の二駅分くらいは歩いたでしょうか。
前を行く女の子は、ゴミ箱に飛び乗ったかと思うと宙返りして飛び降りたり、路上駐車してある車をたったの三歩で乗り越えて見せたり、正面から歩いてくる人の目の前で姿を消して、直後にその人の真後ろに現れて見せたりしました。
マモルは彼女を見失わないように、半分駆け足でついて行きました。
どうしてマモルはついて行ったのでしょう。
「ここよ」
女の子は小さな店の前で立ち止まりました。
マモルたちは、キングスクロスからカムデンタウンまで歩いていました。マモルはようやく休めることでほっとしていました。
女の子はアリスと名乗りました。やれやれ。
ロンドンには語学留学で滞在しているということでした。ショートヘアのアリスは、少しビョークに似ていました。
アリスはローストビーフとヨークシャープディングとハギスが盛り合わせになった料理を、マモルはミートパイを注文しました。
食事の間、もっぱらアリスが話していました。
「フリーランニングのトレーサーなの」
マモルにはそれがなにを意味するのか、まるきり見当がつきませんでした。陸上競技か自動車レースのことでしょうか。
「まず直面しなきゃいけないのが壁なの」
アリスはそう言うとひとりうなずきました。
「目の前に立ちはだかる壁を克服するのが第一要素ね。目の前に現れるものはすべて克服していかなくてはいかない。壁はよじ登り障害物は跳び越えて。建物を屋根から屋根へ、ビルをその屋上から屋上へと飛び移って自在に町を移動して行くの。しかも美しくよ。美しくなければ意味がない。そうして鳥のように自由になるの。ビルを飛び移りながら見下ろすと、通りを歩く人々がすごくちっぽけに見える。それだけじゃない。歴史や国境や人種も、そういったものをひと跳びで越えていくの。それがわたしの求める究極のフリーランニングよ」
「危険だね」
そのくらいはマモルにも理解できました。
「決まってるじゃない。いいえ違う。危険だからって怖気づいてちゃだめ。危険だって分かっていたってガンガンチャレンジしていくの。もちろん繊細なバランス感覚と細心の注意を払って。そしてそれを易々とかつ美しく決めて見せる。壁も煙突も、限界だって乗り越えていくのよ。そしていつか鳥になる。それがわたしのフリーランニングにおけるパフォーマンスよ」
アリスはそう言うと、再びひとりうなずいたのです。
フリーランニングの存在を、その時マモルは始めて知りました。彼には無縁の世界なのは良く分かりました。
アリスと名乗る女の子の話を聞きながら、彼女のジャージのお尻の黒い染みをいつ彼女に教えたらいいか、マモルはそのことで悩んでいました。そしてなぜ彼女は、突然マモルの前に現れたのでしょうか。
「なにニヤニヤしてるのよ」
アリスにピシャリと言われ、結局お尻の染みのことは言い出せませんでした。
幸い料理もサービスも、とびきりとは言えないまでも満足できるものでした。結局店の支払いはマモルが済ませました。
先に店を出ていたアリスは歩道に立って、当然のことのように胸を張っていました。
通りに出るとアリスは、『ご馳走さま』も言わずに駆け出しました。
呆然と見守るマモルの眼前で、アリスは通りの突き当たりにある高さが二メートル以上もありそうなレンガ塀に飛びつき、声をかけるチャンスも与えずに塀の向こう側に消えてしまったのです。
マモルは塀の前まで走って行き、少し脇の汚れたゴミ箱の上に苦労してよじ登って塀の反対側を覗き込みました。そこに着地に失敗して倒れこみ、もがいているアリスがいやしないかと期待して。
ささやかな期待は叶いませんでした。アリスにとってはその程度のレンガ塀を乗り越えることなんか、ただで夕食にありつくくらい易しいことなのでしょう。
じめついたレンガ塀を掴み、彼女が駆け抜けて行ったであろう石積みの建物が作る細い隙間を見つめました。もしかしたら彼女はその狭い隙間を屋根目がけてかけ上って行ったのかもしれません。
見上げると建物で切り取られた細長い空を、ちょうど英国航空の旅客機が横切っていくところでした。
アリスはどこへ行ってしまったのでしょう?
屋根から屋根。屋上から屋上へと自在に飛び移り、ロンドンの町を駆け抜けて行ったのでしょうか。
あるいは木箱の上に落ちる前にいたかもしれない、高くて遠いどこかへ戻って行ってしまったのでしょうか?
ロンドンに滞在している間、アリスには二度と会うことはできませんでした。マモルは、お尻の二つの染みのこと以外に彼女に言わなくてはいけないことがあるような気がしていたのです。
ポートベローロードでもペチコートレーンでも、見上げるといつもそこには街並みに切り取られたロンドンの空がありましたが、そこを自由に跳び回るアリスの姿を見つけることはできませんでした。孤独な男を見つけて、ふわりと地上に舞い降りてくるアリスの姿を。
天使の見つけ方 〜 プロローグ 〜
プロローグ
その日は朝から南風が強く吹いていました。
梅雨が明けようとしているようでした。
その頃の私はお金もなく親しい友達もなくそして道に迷っていました。
それでも時間だけは有り余っていた私は毎日多摩川へ出て堤防の上のサイクリングロードを歩きました。
晴れた日も曇った日もありました。
もちろん雨の日だってありましたがそれでも私はびしょ濡れになっても歩いて行ったのです。
そこがお気に入りの場所だったからです。
緑道が数メートル先で堤防に突き当たる辺りを歩いている時でした。
突然視野の端を白いものがよぎりました。
そこはずっと昔に貨物の引込み線が敷設されていた跡地に作られた緑道でした。
紙でした。
数枚の白い紙が風に舞っていたのです。
その中の一枚が季節はずれの風花みたいに私の方へ舞い落ちてきました。
慌ててそれをつかみました。
画用紙でした。
毛深い動物の足のようなものが描かれていました。
ひっくり返して見直してみると翼のようにも見えました。
画用紙をつかんだまま堤防の斜面を駆け上りました。
まず目に入ったのが小さな背中でした。
次に対岸の私鉄の駅ビルが見え駅ビルを囲むマンション群が見えました。
それらはモザイクタイルのように低層住宅が埋め尽くした丘陵を背景にして要塞のように立ち上がっています。
五十メートルくらい下流に懸かった鉄橋をちょうど私鉄の列車が渡っていました。
私は小さな背中に視線を戻しました。
堤防の斜面に座った女の子の背中でした。
女の子は膝の上に拡げたスケッチブックに屈み込むようにして鉛筆を握った左手を忙しく動かしていました。
周囲にはほとんど注意を払っていないように見えました。
画用紙の上を不規則にけれどもリズミカルに動く女の子の左手を見ていると時間の流れが切り替わっていくような気がしました。
それは私が乗りそこねてしまった時間とも取り残された私自身の時間とも違っているようでした。
南風は河川敷に拡がった一面の緑を揺らしながら水の匂いを運んでいました。
私は一歩踏み出して女の子の肩越しにスケッチブックを覗き込みました。
画用紙には目の前の風景はまだ現われていませんでした。
時々女の子は鉛筆を止め右手で画用紙を勢い良く破り取るとそれを自分の横の草の上にたたきつけるように置きました。
女の子の横にはそうやって破り取られた画用紙が何枚もでたらめに拡がっていました。
その中の数枚が風に飛ばされていたのです。
画用紙にはいつになっても私が予想したものは現れてきません。
女の子の後ろに立ったままスケッチブックと目の前の風景を見比べていました。
次に女の子を見たのは数日後のことです。
私は川向こうにある古本屋へ行こうとしていました。
女の子はサンドイッチを食べていました。
空は気持ちよく晴れていて川面を渡る風が堤防の上をきまぐれに吹き抜けていました。
目の前で風は女の子の膝の上のナプキンを舞い上げました。
舞い上がったナプキンは白い小鳩に見えました。
その時ナプキンを追う女の子の視線が私をとらえました。
女の子の左手が伸びたのとほとんど同時でした。
女の子の左手にはサンドイッチがひと切れ握られていました。
お腹が鳴りました。
空腹だったのです。
その頃私はいつも空腹でした。
遠慮なくいただきます。
私は右手を差し出しました。
「よかったらどうぞ」と女の子は言って首を傾げました。
勘違いというものはえてして喜劇的な側面が大きいものです。
女の子は舞い上がったナプキンを押えようと手を伸ばしただけでたまたまその手にサンドイッチを握っていただけだったのでしょう。
気が付くと堤防に座り女の子と並んでサンドイッチを食べていました。
それまでに自己紹介を済ませ彼女に飲み物の希望を聞き近くの自動販売機に缶コーヒーを二本買いに走っていました。
私にはそこまでの記憶がありません。
我に返った時にはびっしょりと汗をかいた自分が女の子の横にサンドイッチと缶コーヒーを握ってぎこちなく座っていたのです。
サンドイッチを食べ終わると女の子はスケッチブックに戻っていきました。
しばらくの間私はその場に座っていました。
私はなにを待っていたのでしょう。
三度目に女の子を見たのも同じ場所でした。
私は女の子の隣に座り川の流れとスケッチブックを黙って見ていました。
私が予想していたもの。
私が白いページに描かれるはずだと思う形態はいつになっても現れてきませんでした。
女の子は言いました。
「先入観が物事の本質を見誤らせることって結構多いの」
女の子はひとりうなずきました。
「外で絵を描いているからって風景をスケッチしているとは限らない。そういうこと」
私はうなずきました。
「アトリエで仕事をしているからって静物のデッサンばかりしているとは限らないように。多くの人が常識にとらわれるあまり見えているはずのものを見落としてしまっている」
仮に自分が絵描きで裸の女性が目の前いたとしたらどうするだろうと考えていました。
「そんな時はしっかりデッサンしなくちゃモデルさんに失礼よね」
その時私はたぶん顔を真っ赤にしていたのでしょう。
そんなこともあって女の子の特殊な能力には気付きもしませんでした。
女の子の横で私は額の汗を大慌てで拭っていました。
ところで女の子はなにを描いていたのでしょう。
季節は夏を過ぎ秋へと移っていきました。
最後に女の子を見たのは多摩川に懸かった橋から私鉄の駅へと続く広い通りでした。
女の子は通りの歩道を駅へ向かって歩いていました。
追いかけませんでした。
小柄な後ろ姿がすぐに人混みに紛れてしまったから?
またそのうち会えると思ったから?
違います。
勇気がなかったからです。
追いかけて呼び止める勇気がなかったのです。
呼び止めてどう話しかけたらいいのか。
堤防ではなく通りで声をかけられて女の子が迷惑するのではないのか。
知らんぷりをされたら格好悪いし。
その時の私はそんなことしか考えられなかったのです。
人混みに消えて行く後ろ姿はなぜか記憶に焼き付きました。
片腕にスケッチブックを抱え背中に白いデイパックを背負った小さな後ろ姿でした。
それは白い羽根を持った天使でした。
特殊な使命を帯びて人間社会に忍び込み密かに活動をしているそんな天使に見えたのです。
それはどんな使命なんでしょう。
すくなくともそれは私のような孤独な人間を慰めるというような種類のものではなかったのでしょうね。
きっと。
その後女の子には二度と会えませんでした。
初めて話した時女の子は言いました。
『鉄橋を渡った時列車の窓からこの堤防が見えたの。そして次の駅で降りたってわけ。この場所はひと目で気に入ったわ』
女の子がどこに住んでいたのか。
そして彼女がなにを描いていたのか。
分からないままでした。
聞いてみたいこと話してみたいことが山のように残っていました。
リストにしたら短編小説くらいの長さになったかもしれません。
女の子はいったいどこからきてそしてどこへ行ってしまったのでしょう。
ラグビーをめぐる、ささやかな記憶
第7日目はラグビーについて書いていきたいと思います。
7月15日土曜日、東京の秩父宮ラグビー場でスーパーラグビーに参戦している日本チーム、サンウルヴズの今シーズンの最終戦がありました。対戦相手は、ニュージーランドのチーム、ブルーズ。プレイオフへの進出は逃したものの、二年前のワールドカップで優勝したオールブラックスのメンバーが複数人所属する強豪です。一方、サンウルヴズは、二年後に日本で初めて開催されるワールドカップに向けた強化のために、昨年からスーパーラグビーに参戦している新しいチームで、今シーズンはわずか一勝を上げたのみ、という状況です。
東京都府中市に十数年間居住していたことがあります。1980年代から1990年代にかけてのことです。
府中市には社会人ラグビーのチームが2チームあります。ひとつは、ユーミンの「中央フリーウェイ」で「左はビール工場」と歌われているサントリー。もうひとつは、昭和史に残る未解決事件、「三億円事件」で従業員のボーナスを強奪された東芝府中です。
80年代当時、サントリーのスタイルはスタンドオフを司令塔としたスマートな展開ラグビーでした。早稲田大学出身のスタンドオフ、本城やスリークウォーターバックの吉野が在籍していたこともあって、個人的には早稲田のラグビースタイルに近い印象を持って観戦していました。
一方、東芝府中は、フォワードを中心として前に前に、といった印象で、明治大学出身のフォワード、河瀬泰治が在籍していたこともあって、明治大学のラグビーに重ねて見てしまっていました。
90年代になってからですが、東芝府中のセンターにアンドリュー・マコーミックという、ニュージーランドのクライストチャーチ出身の選手が加入しました。彼のプレイを秩父宮ラグビー場のバックスタンドから生で何度か見ましたが、アタックは言うまでもないのですが、献身的な激しいディフェンスを黙々と続ける彼のプレイスタイルは、神戸製鋼の平尾や元木に並ぶくらい新鮮で尊敬できるものでした。
そんな彼のスタイルとキャプテンシーを、ぜひ日本選手に真似して欲しい、そんな風に見ていました。すごく好きな選手でした。
1999年にイギリスで開催されたワールドカップでは、平尾監督率いる日本代表は残念ながら一勝もできませんでしたが、このチームのキャプテンが日本のラグビー史上初の外国人キャプテン、アンドリュー・マコーミックでした。
ヒースロー空港のバス乗り場で日本代表のスタンドオフ、岩渕を見つけて声をかけ、バスのフロントグラス越しに、平尾監督の顔を見られたこと、その一部始終を持参していたデジタルビデオカメラで撮影していて、懐かしい記憶とともに記録が残っています。
その翌年、ラグビーとは全く関係のない目的で、ニュージーランドのクライストチャーチへ行きました。空港から宿泊先のB&Bまで乗った、中年のドライバーが運転するタクシーのカーラジオからはスポーツ中継の音声が流れていました。
英語のアナウンスを何気なく聞いていたところ、「オフサイド」とか「ノックオン」など聞きなれた単語が聞き取れました。
ドライバーに「ラグビー?」と聞くと、彼は「そうだ」と答えました。名称を聞き取ることはできませんでしたが、「地区リーグの試合」のようでした。
私は、「アンドリュー・マコーミックを知っている?」と聞きました。
ドライバーは「知っている」と答えました。「父親は、オールブラックスの選手だった」と。
私は、マコーミックについて、「日本代表のキャプテンを務めた、大好きな選手だ」なんてことは夢中で話していました。運転をしながらラグビー中継を聞くには、大変な雑音だったとは思いますが。
B&Bに着いてタクシーを降り、イギリス式にならってタクシーの助手席の窓から料金を払ったのですが、ドライバーは料金を受け取った後、右手を突き出してきました。
チップが足りなかったのか、と思っていたら、彼は握手を求めていたのでした。
翌日、B&Bでタクシーを呼んでもらうと、前日のドライバーの車でした。
ニコニコしたドライバーに「ラグビー・ガイ」とか呼ばれ、タクシーを降りるまでに同じような話を繰り返していました。
帰国までの間、残念ながら同じドライバーのタクシーに乗ることはできませんでした。
7月15日土曜日、サンウルブズの今シーズンの最終戦。テレビ中継はありませんでしたが、民放のラグビー番組で急遽、ダイジェストが放送されました。
前半はブルーズにリードされる展開でしたが、21対21に並んだ後半、サンウルブズが一方的に攻めて、終わってみれば48対21の大差での勝利となりました。連続攻撃からのトライやモールを押し込んでのトライあり、と会場で観戦していなかったことが悔やまれるくらい、サンウルブズの応援団にとっては素晴らしいゲームでした。
そんな試合展開を追いかける間中、ずっとクライストチャーチで出会ったタクシーのドライバーのことが頭に浮かんでいました。もし、あのドライバーがこの試合を観戦していたら、どんなことを思っただろうと。そして、試合内容と両方のチームの戦いぶりにどんな評価をしただろうと。
前半、サンウルブズは善戦するもののミスが目立つ戦いぶりで、彼にほめられる内容ではなかったろうと思います。他方、ブルーズの戦いぶりに関しては、最下位のチームとの消化試合であり、また南半球とは真逆の、蒸し暑い酷暑の東京というコンディション調整も不利な状況があったとはいえ、相当厳しい評価が彼から下されたんじゃないでしょうか。
もし仮に、クライストチャーチでラジオで中継されていたとして、彼が運転中にそれを聞いていたとしたら、何度もハンドルをたたき、汚い言葉もひとつふたつ、口を突いていたかもしれません。
でも、もしかしたら冷静にプレーを分析していて、サンウルブズの戦いぶりと、1ヶ月前の日本代表のアイルランド戦の内容から、2年後の日本代表の弱点を見抜いていたかもしれません。なにしろ、ワールドカップを連覇した、オールブラックスの国のラグビー好きなドライバーなのですから。
2019年、ラグビーW杯。日本で開催される大会で、日本代表のラガーマンたちは、どんなドラマと感動を届けてくれるでしょうか?
ヴィブモン・ディモンシュ、鎌倉、葉山、Cafe Sorte、ブック・カフェ・ギャラリー PNB-1253 のこと
第6日目はカフェについて書いていきたいと思います。
数年前になりますが、休みが取れると気になっているカフェだけを目的に遠出をしていた時期がありました。情報はカフェ好きな方々のブログなどからいただいて、その中で自分のフィーリングに合いそうなカフェを選びました。
そんなカフェをいくつか紹介したいと思います。
1件目はあまりにも有名過ぎて、わざわざ私が紹介する必要もないのですが、カフェ好きには避けて通れない一軒だと思いますので紹介したいと思います。
鎌倉の『カフェ・ヴィブモン・ディモンシュ』。
鎌倉駅前から小町通りを鶴岡八幡宮方向に進み最初の通りを左に入って数十メートル先の右側にあります。店先の2客のベンチが目印です。
店名はフランス映画、『日曜日が待ち遠しい!」(原題「Vivement Dimanche」)から取られているそうです。
数回しか行っていませんが、一度だけマスターがカウンターにいらしたことがありました。
『カフェ・ヴィブモン・ディモンシュ』をというよりも、堀内隆志さんを知ったのは、実を言いますと永井宏という人を通してだったのです。
永井さんの著書を初めて手にしたのは、渋谷パルコの地下にあったリブロでした。
リブロが私にとっての、永井さんへの、あるいはサンライトギャラリーへの、そして葉山カルチャーへの扉だったのです。
もちろんそれまでに、葉山へは何度も行ったことはありました。学生時代、冬の一ケ月、暮らしたこともありましたし、葉山マリーナのプールで開かれていたコンサートへも行きました。
でも、リブロで開いた扉から覗いた葉山は、私の認識の中の葉山とは少し位相の違った葉山だったみたいです。
その証拠に、その後何度も葉山へ行っていますが、やっぱり永井さんを通して覗き込んでいた葉山は、別の場所にあるような感じを抱き続けたままだからです。
私はクリエーターでもアーチストでもないので、サンライトギャラリーにふさわしい人間ではないことは分かっているのですが、永井さんの著作を読みながら、自分をその空間において、空間によって自分が、また自分の存在によってその空間がどのように有機的に変化するだろうか、ということをイメージするのは好きでした。
それは自分にとって、とても心安らぐ豊かな時間だったのです。
2001年に短編小説集『雲ができるまで』(復刻版)が発売され、帯に堀内さんのコメントがありました。そして、たぶん堀内さんがモデルになったのが『カフェ』という一編なんだと思います。
そして、永井さんが出版した、『ロマンティックに生きようと決めた理由』で、まだ顔も知らない堀内さんの文章に触れたのです。2003年のことです。
永井宏さんについては、別の機会に改めて書きたいと思います。
紹介すると書いておきながら、肝心のお店についてほとんど紹介できていませんが、多くのブロガーさんが素敵に、上手に紹介されているのでそちらをお読みいただき、今まで機会のなかった方は是非『カフェ・ヴィブモン・ディモンシュ』へ行ってみてください。
まったりとした雰囲気の、笑顔の素敵なマスターに会えますよ。
2件目は埼玉県日高市梅原にある『Cafe Sorte』です。
県道15号線を川越から秩父方向へ走り、日高陸橋を過ぎて約2キロ先の右側にお店はありました。
訪ねたのは数年前の12月30日でした。営業されているか不安でしたが、幸いお店はオープンしていました。
外観は古い蔵を手直ししただけに見えましたが、内部は窓こそ小さいものの、天井の高い落ち着いた空間になっていました。頭上を左右に梁が通り、一部中二階のようなスペースもあるようです。
左手奥のカウンターに店主の近藤佐代子さんがいました。『wagasiasobi』の浅野理生さんに似ている、と思いました。ルックスは違っているので、彼女の職人的な部分から生まれる雰囲気がそう感じさせたのでしょうか?
年末の中途半端な時間だったためか、来店するお客さんがいなかったので、近藤さんから色々とお話が聞けました。
土蔵の改修、土づくりから始まり、木舞をかいて手作業で土壁を塗り直して、4ヶ月前にカフェをオープンした話。
土壁の塗り替えは、ストローベイルと呼ばれる藁のブロックと土で家づくりをしているカイルさんという人に手助けで、家の前にで大きな舟を作って土づくりをしたこと。
ストローベイルという建築工法があることを初めて知りました。
出身は飯能市をはさんだ東京都のA市で、パートナーは園芸関係の方で、などなど。
『グーグルマップで住所から検索すると、数百メートル離れた南西の農地が表示されてしまう』とか、『ストリートビューで見られるのは、ポツンと残った改装前の土蔵だけ』なんてお話をしたのを今でも覚えています。
その後、お子さんも生まれて育児と営業を両立させているようです。
今ではグーグルマップでも正しい位置が表示されますし、ストリートビューでしっかりとお店が確認できます。
私が訪ねた日から数年経っています。どなたか行かれた方で、どんなお話をされたか、是非お聞かせください。
3件目は同じ埼玉県皆野町の『ブック・カフェ・ギャラリー PNB-1253』です。
三沢川が荒川に合流する辺りで、近くには長瀞のライン下り舟乗場があります。
茶色い板壁の建物です。入口を入ると小さなギャラリーで、その奥がカフェになっています。
カフェスペースに入った左手にストーブがあって、背後の白い壁がもこもこと波を打っています。これは、ストローベイルという藁のブロックと土で作った壁らしいです。
ベンチも藁のブロックと土で作られているようです。
カフェスペースの正面にカウンターがあります。
カウンターの右手には書棚があって、古書の販売もしています。
何冊か手に取ってみました。その中に、『住宅作家になるためのノート』という本がありました。
しばらく悩んで、結局書棚に戻してしまいました。読んだことのある文庫も何冊かありました。
窓から見渡せるのは近い山並みに包まれるような小さな盆地状になった、のどかな農地です。
日は山の端に隠れ、薄い煙がゆっくりと盆地に流れ込んでいるように見えました。
店を出て、車に乗り込む前に少し畦道を歩いてみました。
土と枯草の匂い、どこかで枯れ枝でも焼いているような匂いとひんやりとした冬の空気が鼻腔を刺し、記憶のどこかをくすぐります。
記憶の迷路を彷徨っているうちに、冬の薄闇がゆっくりと漂い始めていました。
夜の闇が急ぎ足で近付く中、帰路につきました。
車窓を過ぎる、街灯や家々の明かりに交じって『住宅作家になるためのノート』のライムグリーンの表紙が浮かんで見えました。
購入しなかったことを後悔し始めた時には、寄居の町の明かりが見えていました。
帰宅後、就寝前にアマゾンで『住宅作家になるためのノート』を見つけて購入しましたが、なぜカフェで見つけた時に購入しなかったのだろう、売り手と買い手がダイレクトにつながっている状況をみすみす放り出してしまって、という後悔がしばらくの間、煙のように頭の中に漂っていました。
物を買うことって、その行為の意味や価値のすべてがその物のなかに丸ごとあるとは限らないのです。
作り上げられたものの持つ機能としての価値と、それを作り上げるまでに費やした時間と過程の持つ価値が、必ずしもイコールではないように。
『住宅作家になるためのノート』。いい本です。
カフェについてはこれからも書いていきたいと思います。
誰でも、お気に入りの、とびきり素敵なカフェをいくつかお持ちなのではないでしょうか?
もしそんなカフェがありましたら、是非教えてください。
価値観を共有できそうなお店があれば、時間を作ってすっ飛んで行きたいと思います。
よろしくお願いいたします。
遥かなる河。とりあえず多摩川へでも
第5日目は好きな風景のひとつ、多摩川について書いていきたいと思います。
二十代のころ、約十年ほど多摩川沿いの町に住んでいたことがあります。
恋をしていた時も、失恋した時も、一人ぼっちの時も、道に迷っていた時も、いつもそこに多摩川がありました。
私にとっての多摩川の景観は、堤防から見渡すことのできた、多摩市の丘陵を背にゆったりと流れる広々とした多摩川です。それほど整備がされていない河川敷には人影も少なくて、へらぶなを狙う釣り人か飼い犬を放して運動させる人、フライフィッシングの練習をする人、あまりぱっとしないカップルが見える程度でした。でもそれが、私が一番好きな多摩川の景観でした。
もちろん、奥多摩や青梅の人なら、渓谷の景観が一番素晴らしい、と主張されるかもしれません。
羽村や福生に住む人なら、羽村の堰の景観が素晴らしい。立川や日野の人なら、くじら公園周辺の川床から突出した岩板の形成する、くじら岩の独特の景観が一番だ。
ずっと下って、狛江や登戸の人なら、多摩川水道橋か五本松の景観でしょう、向ケ丘遊園も見えるし、と。
世田谷や川崎の人だったら、二子玉川緑地や丸子橋周辺。
大田区の人なら、六郷橋周辺の、いやいやガス橋周辺の方が上でしょう、と。
景観に限らず、好みというものは人、ひとりひとり違っていて当然で、また、誰がなにを人に誇れるものとして持っているかも、人それぞれです。
自転車で羽村の堰から二子玉川の手前、野川が合流する辺りまで行ったことがあります。当時でも、ごく一部を除いてサイクリングロードが整備されたいたと記憶しています。日野橋の辺りと拝島橋の先は一般道を走ったと思います。
天気は申し分ありませんでした。
サイクリングロードを、川の流れと並走するようにしてゆっくりと下って行くと、どの町の景観も豊かな個性と広がりをもって迎えてくれました。
カセットケースサイズのウォークマン、WM−20をウェストポーチに入れて、ジャーニーやトト、ボストンを聞きながら走りました。
途中、土手に座って自販機で買ったコーラを飲み、古い食料品店で買ったジャムパンとアンドーナツを取水堰の端に座り、川面を見下しながら食べました。
先の見通せない単調な日常の中、一日の苛々や焦りのやり場を見つけられずに私鉄列車の吊革につかまっていたような時も、窓から多摩川が見えると、不思議とその瞬間に苛々や焦りがすーっと引いていくのが感じられました。
一日中誰とも話さなかった日、夕方になって多摩川に出ると、灰色の雲が波立ちうねる海面を引っくり返したように低く垂れこめていました。波立ちのひとつひとつがくっきりとしていて、それぞれが感情を持って身悶えするように蠢いて見えました。
やがて夜が訪れて、闇が彼らの姿を塗り潰していきましたが、星の見えない黒い夜空に、彼らの息遣いがいつまでも残っているように感じられました。
たぶんその当時の自分自身への懐疑や未来に対する不信、そんな自分の置かれた状況に対する根拠のない不満なんかが、誰にぶちまけることもできずに胸の中で渦巻いていたからなのでしょう。
そんな夜もありましたが、それでも多摩川は、いつも自分の近くにいてくれる、かけがえのない大きな存在であり続けました。
様々な事情があって多摩川沿いの町を離れることになりました。
今でも時々、あの頃の不器用で頼りない自分が、川面を渡る風を受けて堤防の上に立ち尽くしている姿が思い浮かびます。そして仮に当時の自分に語りかけることができたとしたら、今の自分は彼に語りかけるどんな言葉を持てているのだろう、と考えるのです。